明治23年(1890年)総社市生まれの稲葉春生という日本画家をご存知でしょうか。昨年暮れから今年初めにかけて、生誕120年を記念した展覧会が県立美術館で開かれました。画家になる前は、小学校の教師をしていて、地域の社会教育にも貢献するなどさまざまなエピソードを残しています。今回は、郷土岡山の日本画発展に尽した「画家稲葉春生の人柄と残した作品」を紹介します。
日本画家「稲葉春生」本名稲葉国市明治23年(1890年)総社市新本の裕福な地主の家「稲葉参三郎」の長男として生まれました。矢掛中学校を卒業し東京美術学校への進学を希望しますが、両親の許しが得られず、岡山県師範学校へ進み、新本小学校の教師になります。しかし、大正14年(1925年)三十五歳の時、京都に出て、竹内栖鳳の門に入り若いころのからの念願だった日本画家を目指しました。稲葉春生は、明治44年、21歳の時、結婚します。妻、君恵は、当時新本村の村長鎌田茂の長女でした。現在、総社市総社に住む鎌田茂夫さんは、君恵の弟鎌田賤夫の長男で、稲葉春生とは、義理の伯父と甥の関係になります。「花葵」は、春生が35歳で京都に出て日本画家を目指してから5年目の昭和6年に初めて帝展に入選した作品です。帝展に初入選してからは、文部省美術展覧会、日本美術院春季展など数々の展覧会に入選を果たしています。20年に渡り京都で日本画を学んだ春生は、戦争が激しくなった昭和19年に故郷新本に帰りました。将来は再び、京都にもどるつもりでしたが、実家の仕事などで岡山を離れることが難しくなり、昭和24年には、岡山市岩井にアトリエを設けて創作活動を続けました。そして、29年からは、岡山大学教育学部美術教室の講師を務め、さらに、36年には、学生と一般を対象にした日本画研究団体「青丘社」を立ち上げ岡山の日本画壇の発展に力を尽くしました。誠実で温厚な人柄で一貫して自然美をテーマに花鳥画を追求した春生は、昭和51年(1976年)86歳で亡くなりました。なお、教師時代に春生は江戸時代の新本義民騒動を顕彰した唱歌を作詞作曲しています。




