水島コンビナートに面し、かつては水陸の交通の要衝として栄えた倉敷市連島地区。大輔はこの地に高橋家の4男として生をうけました。
「小さいときは泣き虫」「賞状がほしかったのがきっかけです」
ちょうどその頃、自宅近くにサンピア倉敷が完成しました。弱虫で体の小さかった大輔。「怖い、バットやラケットは重い」などとなかなか気に入ったスポーツが見つからない中、偶然にもフィギュアスケートに出会い、徐々にのめりこんでいきます。
「小さいときは一日中リンクにいた。思い出はそれだけ」
こちらは大輔が初めて大会に出場したときの貴重な映像です。
この頃からは想像がつきませんが、次第にその才能の片りんを表し始め、小学校を卒業する頃にはすでに大きな目標を掲げていたようです。
中学時代から頭角を現した大輔は、全日本ジュニアで優勝したほか、2002年には、日本人男子として初めて世界ジュニアを制するなど、ジュニア時代から世界を舞台に活躍してきました。
高校を卒業後は大学へ進学し、卒業時に目標としていたトリノオリンピックに出場。8位入賞は果たしたものの、決して満足のいくものではありませんでした。
「オリンピックでは情けなかった。荒川選手に刺激を受けた。悔しさがバネになったんじゃないかなと思う」
大学時代前半は不調に終わった大輔ですが、オリンピックを境に大きく変わります。トリノオリンピックの翌シーズンにはグランプリファイナル・世界選手権ともに日本人男子過去最高となる2位の快挙を達成、世界のトップスケーターの一人に成長しました。その後、右ひざじん帯断裂という苦境を乗り越え、見事、復活。バンクーバーオリンピック出場を果たしました。




